素材:Abundant Shine様
「彼女には会えたのかい?」 「え?彼女って?」 「自分で気づいていなかったのかい? 最後の曲、君の音が変わったのが分かったよ」 「俺の音が変わった?」 「うん、とても優しくなった…知り合いって彼女だったんだろう?」 「は…ははは、残念ですけど彼女じゃないですよ」 王崎先輩って案外スルドイんだな 自分でも気付かないうちに音に表れていたってことか… 先輩はにこやかに笑いながら俺の背中を軽く叩いた Crescendo 5 机の上に置いてある洗いたてのハンカチを見ながら、俺はこれを返しに行くかどうか悩んでいた 返しに行けばアイツに会える だが、は返さなくていいと言った それはどう考えても俺とはもう会いたくないということだろう 「くそっ…」 ベッドに身体を投げ出して目を瞑ると「バイバイ」と言ったアイツの顔が思い出される 小学生の時はただアイツといるのが楽しくて、 俺のピアノを素直に認めてくれるのが嬉しくて、お前が一番好きだった 中学の時、俺が人前でピアノを弾かなくなってから お前と話すのが妙に照れくさくて、結局一番好きだったお前を自分で遠ざけた 遠くなればなるほど自分の気持ちが決定的に位置づけられるように気付かされていった いつの頃からかだんだん強くなっていく思いに、自分なりにケリをつけようと思っていたが 結局それも叶わず後悔だけが残った 高校で再びピアノを弾くようになって、お前と俺を繋いでいたのはピアノなのだと実感した そういえば、俺がピアノを弾いていた時はいつも楽しそうに聴いていたな 俺はもう一度お前のあの笑顔が見たい 偶然にも神様がそのチャンスを俺に与えてくれた こんなウジウジと考えている場合じゃないよな? こんなのは俺らしくないじゃないか 翌日俺はハンカチを制服のポケットに入れ登校した いつもより早い時間に学校に着いた俺は真っ直ぐ練習室へ向かった 窓を大きく開いてピアノの前に座る 楽譜はいらない お前のために弾くメロディはこの指が憶えているから 「こんな時間に珍しいのダ」 妖精のリリが現れて俺の周りを飛び回っている 不思議なものだ この妖精が見えた所為で俺はまたピアノを弾く事になって苛立っていたのに 「ブラボーなのダ」と嬉しそうに飛び回るリリの顔がの笑顔と重なるなんてな 「やっぱり音楽は素晴らしいのダ」 「そうだな」 まさか俺が同意するとは思っていなかったのだろう、リリは少し驚いた顔をしていたが やがて満足そうに笑ってどこかにフッと消えた 俺は再びピアノを弾き始める この音が風に乗ってお前の耳に届くようにと… 放課後、俺はの通う学校の前にいた 他校の生徒がここに立っているのが珍しいのか注目を浴びてしまう さすがに困り果てていると、あの時と一緒にいた女の子を見つけ急いで声を掛けた 「あっ、この間のストリートライブでキーボードを弾いていた人ですよね?」 俺のことを憶えていてくれた事に内心ホッとしながらのことを尋ねると 「今呼んできますね」と校内へ走って行った さあ どうする? もう逃げることはできないぜ梁太郎。 アイツに会ったら何て言えばいい? ハンカチを返しに来たと? いや、そんな取ってつけたような理由なんていらないよな? 正直に言っちまえばいい、お前に会いに来たってな そんなことを考えていると校庭を真っ直ぐに走ってくるお前の姿が見えた 俺の前に来ると恥ずかしさ混じりの困惑顔を見せたが、直ぐに小さく微笑んだ 「どうしたの? この間久しぶりに会って懐かしくなった?」 俺は「それもあるけどな」と前置きしてからポケットからハンカチを差し出した 「ハンカチを返しに来た」 「やっぱり土浦って律義だなぁ、返さなくてもいいって言ったのに…」 「ハンカチのことは口実だけどな」 「口実?」 そう、口実だ お前に会いに来た お前に会いたかった 心の中では簡単に言えるのに声にならない 何故そんな簡単な事が言えない? お前に伝えるって決めた覚悟が凋んでいくようで… 言えないのはお前の反応が怖いから―― 「土浦?」 返事を待つように真っ直ぐ俺を見つめるお前の瞳に耐えきれなくて それこそ勇気を振り絞って言ったんだぜ 「お前に会いに来た」ってな その言葉にお前の顔が一瞬曇った だが、直ぐに「へぇ、やっぱり懐かしかったんだね」とお前は笑う 軽くスキップをしながら俺より先を行くお前の制服のスカートが翻るのを眩しく思いながら 胸の中でお前に訊ねる お前は懐かしいだけなのかと。 「私はね…」 は、そう言うと足を止めて振り返る そしてその後に続く言葉に、予想はしていたが直接お前の口から聞くとかなりショックだった 「私は…土浦に会いたくなかった」 「そうか…、それじゃ俺が来たのは迷惑だったみたいだな?」 はゆっくり首を横に振って「でもね…」と言葉を続ける 「土浦が…、ピアノをまた弾き始めたって知って凄く嬉しかったよ」 お前は皮肉にも俺が一番欲しかった笑顔を見せた BACK TOP NEXT |