素材:Abundant Shine様
アイツには俺が居ないとダメだって思ってたんだ 年だって俺より上のくせしててんでガキっぽくてさ 仕方ないから俺がずっと傍に居てやるって…、あの日までそう思っていた 卒 業 あれはアメリカ留学から戻ってきてすぐの頃だった に「久しぶりに姉弟が揃ったから」と無理矢理連れ回されて少し疲れていた だけど、それもと一緒だから心地いい疲れだと感じていた そんな俺の気持ちも知らずには平然と身体を摺り寄せて来て腕を組む お前の付けている甘い香水の香りが鼻をくすぐって少しだけ鼓動が速くなる 「桐くん、疲れた?」 「その呼び方やめろよ」 「なんで?桐くんは桐くんでしょ?」 ったく、はちっとも分かっていない “桐くん”なんて呼び方…、子供っぽいじゃないか 昔から変わらない呼び方。 お前の中の俺はずっと小さい頃のままなのか? 「桐くん、アイスクリーム食べる?」 「いらない」 「じゃ、買ってくるね」 「いらないって…」 おい、人の話を聞けって! はワンピースの裾を翻しながら俺の返事を無視して駆け出していく その背中を見送りながら桐也は溜息を吐きながら近くのベンチに深く腰を下ろした 目の前の海がキラキラ光って、それを眺めながら久しぶりの日本を感じていると 不意にヴァイオリンの奏でるメロディが風に乗って耳に流れ込んで来た その音は技術的には素人の音だけど、どこか魅かれる音で 俺は気が付くと音に合わせて足でリズムを取っていた そして、リズムを取っていた足は自然と音の方へ向かって行く そこには楽しそうにヴァイオリンを弾いている俺とさして年の変わらない女の子が居た 荒削りで、音も雑。技術も何もあったもんじゃない それなのに何で心が魅かれるのだろう… 「どうしたの?あそこでヴァイオリンを弾いている子が気になる?」 以外の奏でる音に惹かれたのは初めての事だった その柔らかい音色に一瞬でも心奪われた事が自分の中で許せなくて 「別に……、ヘタクソだって思っただけだ」なんて咄嗟にそんな嘘が口を吐いた だけどは俺の嘘を暴くみたいに「そう?」なんて聞き返してから 「いい音を奏でてるって思うけど」と何故だか楽しそうに笑った 俺はが優しい音で奏でるって知っているから「の方が上手い…よ」って言ったんだ 嘘でもお世辞でもなく本当にそう思ったから… それなのには「私にはあんな音は出せないなぁ、きっとヴァイオリンが好きなのね」と 笑いながらアイスクリームを舐めた 「の方が上手い!」 「はいはい」 何でこういう時だけ姉貴風を吹かすんだよ 意地になっている俺が子供に見えるじゃないか なんて、くだらないことを考えていたら「そんな事より早く食べないと溶けちゃうよ」と 目の前にアイスクリームを差し出されて、俺は慌ててそれを振り払う 「いらないって言っただろ?」 「え〜、私一人じゃ食べられないよ〜」 はクリームを付けた唇を突き出してプイッと横を向いて見せた その仕草はとても俺より年上とは思えなくて、だけど俺しか知らないそんな素顔が嬉しくて… 「しょうがないから食べてやるよ」なんて、俺はそうやって真実を隠したりする 「美味しい?」 「まぁまぁ」 「そっか、そんなに美味しいなら幹くんにも買って行こうね」 「美味いなんて言ってない」 は「何年桐くんと一緒に居ると思ってんの?」とクスクス笑いながら俺の頭を撫でる 細く長い指に俺の髪が絡んでいるのが照れくさくて動けずにいた 昔からに頭を撫でられると素直になれる気がした 「ふふっ、やっぱり桐くんはカワイイねぇ〜」 「だから…その呼び方やめろって…」 「桐くんだって私の事呼び捨てしてるじゃない。私は桐くんのお姉さんだよ? 幹くんみたいに可愛くお姉ちゃんって呼んでくれてもいいでしょ?」 「いいだろ、別に…に彼氏が出来たら呼んでやるよ」 「じゃあ私も桐くんに彼女が出来たら“桐くん”って呼ぶのをやめてあげるよ」 少しだけ痛む胸を抑えていると、さっきのヴァイオリンの音色が流れ込んで来た 染み込んでくる彼女の音は俺を前に進ませてくれるようなそんな心地いい音色だった 「なに?どうかした?」 ふと足を止めてしまった俺の顔を覗き込むに居心地悪さを感じて 「別に…疲れた……もう帰ろう」とその場の空気を消すようにの腕を掴んだ は意外そうな顔を見せたけど、直ぐに小さく笑って俺の腕に手を回した 小さい頃は、単純に姉弟でも結婚できるなんて思っていた それが不可能だって知ったのはいつの日だっただろうか はいつでも近くに居た異性で、それは理想でもあり憧れだった だけど、俺は彼女の奏でる音を聴いてしまった それは突然やってきた あの日、彼女の音を聴いてからどれくらい経ったのだろう 従兄弟の暁彦さんに言われて彼の理事する学院に顔を出した 別に他の奴の音なんて興味なかったし、俺の耳を満足させてくれる奴なんていないってことも 分かっていたから、適当に理由を付けて早々に帰るつもりだった それなのにお前にどうしても聴かせたい音があるなんて言うからさ そんなに上手いのか?って訊くと暁彦さんは何も言わずに息を漏らすようにフッと笑ったんだ こんな時の暁彦さんは絶対何かを企んでいるって分かっている 案の定「聴く事も勉強だ」と俺を講堂まで連れて行った 講堂では多数の生徒達がイベントの為の練習をしていた さすがに星奏学院と言ったところか、木管、金管、弦楽器と様々な音が重なり合って さしずめ小さなオーケストラのリハーサル風景のようだった 暁彦さんが黙って舞台の方へ近づいていくと、そこで練習をしていた一人の女の子が 舞台から降りてヴァイオリンを小脇に抱え走り寄って来た 彼女は俺達の前に来ると頭を下げてから暁彦さんと俺の顔を交互に見た 「こんにちは、今日は何か?」 「いや、練習の邪魔をしてしまったようだな…すまない」 すまない?すまないだって?……よく言うよ そんなこと微塵にも思ってもいないくせに… 暁彦さんは俺の事をちらりと横目で見ながら 「学院内を案内しているところだ、気にせず練習に戻りたまえ」なんてまったく白々しい。 彼女は暁彦さんに言われるまま、また軽く会釈して練習に戻って行った 「桐也、彼女の音色を聴いてみるといい」 そう暁彦さんが言うから、彼女の実力がどんなものなのか期待したんだ だけど彼女の音を聴いた瞬間、俺の身体の中で何かが弾けた感じがした ―― 彼女だ あの時と出掛けた公園で聴いた柔らかくて響いてくる音色 「暁彦さん……彼女は?」 ふぅん、何だまた年上かよ… 俺は彼女の音色を追い掛けるように舞台まで足を進めていく 彼女は俺に気付いて奏でている指先を止めて俺を見つめる 真っ直ぐに見つめてくるその瞳は彼女の音色そのものだった そして、俺の口を吐いて出た言葉は「あんた、下手だな」だった いきなり突拍子もない事を言われ彼女は激怒するかと思ったけど、 意外にも彼女は自分の実力を把握しているのか頷きながら笑顔を見せた その笑顔に苛立ちを覚えた俺は彼女に少し意地悪をしたかったのかもしれない 「あんたさ、そんなに下手なのに弾いてて楽しい?」 彼女は下手だけど、それでもヴァイオリンが好きだから楽しいと真っ直ぐな瞳で言った 俺だってヴァイオリンを始めた時は楽しくて仕方なかった 自分の指先一つで変化していく音色に、まるで魔法使いにでもなったような気分だった もっと上手くなりたい、もっと上にと目標を掲げているうちに技術を重視するようになっていて 楽しいとかヴァイオリンに対する気持ちとかをどこかに置き忘れてきたのかもしれない 「ヴァイオリンが好きだという気持ちは、時には技術に勝る武器になる」 暁彦さんはそう言うと、「来春はお前もこの学院に入るといい」と俺の肩を叩いた やっぱりそれが目的かよ 何かあるとは思ってたけどね でも、俺がここに入ったら彼女の音色の本当の意味が分かるかもしれない 「ま、それまでに少しくらい俺に合わせられるようになってろよな」なんて 俺は心の中で言い残して学院を後にした その夜、俺は彼女の音色を思い出しながらヴァイオリンを奏でた 「桐也、何かいいことあったの?」 の言葉に「別に」といつものように答えてからふと気付いたんだ が『桐くん』ではなく『桐也』と呼んだ事に… どこか恥ずかしいような嬉しいような。 長い間焦がれていた恋に近い感情を、この日俺は封印したんだ 近いうちに俺もお前の事を呼んでみようか 姉さん…と。 BACK |